栃赤城雅男


栃赤城雅男

栃赤城雅男(とちあかぎまさお 本名:金谷雅男 1954年10月31日生)
 [大相撲力士]


 群馬県で呉服店を営む両親の元で、3人兄弟の次男として出生。中学では水泳部、高校では柔道部に所属し、国民体育大会に柔道群馬県代表として出場。高校時代の体重は既に100sを超えていたこの柔道での活躍が春日野親方の目に留まり再三勧誘され、高校を卒業する直前に春日野部屋へ入門することとなった。入門前に相撲経験はほぼ無かったが、角界入りは「どうせ勉強は嫌いなんだから」と即決したという。

 1973年1月場所にて、18歳で初土俵。翌3月場所、「金谷」の四股名で序ノ口に付き、それから僅か1年半弱で幕下に昇進した。幕下上位の壁に一度は跳ね返されたものの、1976年11月場所で十両に昇進。十両は3場所で通過し、1977年5月場所、22歳で新入幕を果たした。そして、幕内昇進を機に「金谷」から、「栃赤城」に改名した。

 持ち前の華麗な取り口から「サーカス相撲の栃赤城」の異名を取り、長く幕内上位で活躍。本場所に於ける幕内の取組では、決まり手としては珍しい「ちょん掛け」や「逆とったり」、「腕捻り」で勝ったりしたこともあった。1979年11月場所では、輪島・若乃花・三重ノ海の3横綱から金星を獲得するなど、上位力士相手でも安定した成績を残した。この場所には4横綱が出場しており、残る北の湖を倒せば史上初の「1場所4金星」という大記録を打ち立てるところであった。一時は関脇に定着し、大関候補として期待された時期もあった。

 だが、粘りを活かした逆転技に頼った相撲であったため一部から「大関に昇進しても怪我をするかもしれない」と危惧され、事実両足首の故障で大関への昇進は成らなかった。稽古嫌いであった上に食べ物の好き嫌いの激しさや暴飲暴食、喫煙の習慣など自己管理の甘さも大成を阻み、この点で春日野親方の心象を悪くしていた。1982年以降は、糖尿病を患い精彩を欠く相撲が多くなり、幕内と十両を往復する時期が続いた。やがては十両でも勝ち越すことができなくなり、1985年7月場所では幕下にまで陥落。1場所で十両に復帰したものの、1勝14敗と大負けして、またすぐに幕下に落ちた。

 その後も幕下で長く相撲を取り続けたが、引退も考えていた時に師匠・春日野親方が病に伏していたため、「師匠に、元気な姿を見てもらいたい」と取り続けた。しかし、1990年1月場所中に師匠が死去したため、同場所後に廃業を決意した。

 廃業後は家業の呉服店を手伝い、後に店主となった。1997年8月18日午後1時半頃、兄弟子であった山分親方とのゴルフ中に「脇腹が痛い」と訴え、一旦立ち上がったもののやがて後ろ向きに倒れてしまった。山分は救急車を手配したが、異変を訴えてからわずか1時間後の同日午後3時、栃赤城は息を引き取った。死因は、急性心筋梗塞であった。そのあまりにも侘しい死は、引退後のプロスポーツ選手のあり方についての問題提起となった。

 1997年8月18日死去(享年42)


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