谷幹一


谷幹一

谷幹一(たにかんいち 本名:岡村文雄 1901年7月18日生)
 [俳優]


 東京生まれ。中学卒業後、美術学校に入学、日本画を専攻する。19歳になる1920年10月に設立された松竹キネマ研究所に入所、小山内薫に師事した。翌1921年8月には同研究所は解散した。汐見洋が主宰する新劇の劇団「研究座」に入団、『どん底』等の公演に出演した。

 1923年9月1日の関東大震災で多くの演劇人・映画人が東京を離れたように、谷も東京を離れ、東亜キネマ甲陽撮影所に入社した。1924年、阪田重則監督の『どん底』と『海の悲劇』に出演、スクリーンデビューをした。1925年、吉田百助原作で松竹キネマ・日活と3社競作の『大地は微笑む』に大役で出演、高田稔らスターと共演する。同年引き続いて賀古残夢監督の『春怨』に主演した。同年、賀古監督が東亜キネマ等持院撮影所で撮った『哀愁の丘』に出演した後、日活大将軍撮影所に移籍した。

 1926年、三枝源次郎監督の『路上の楽園』に主演、阿部豊監督の同年の『足にさはった女』、翌1927年の『彼を繞る五人の女』という岡田時彦主演作に出演し、注目された。1929年の現代劇部の太秦移転にともない日活太秦撮影所に異動した。1933年、久見田喬二監督の時代劇『芝浜の革財布』に主演、山中貞雄監督の時代劇『盤嶽の一生』にも出演した。1934年、千葉泰樹監督のサイレント映画『柔道選手の恋』を最後に日活を去り、J.O.スタヂオや同社内に新設された太秦発声映画でトーキーに出演した。

 1938年夏に実父が死去。この頃母一人子一人の生活の中仕事が激減しており出演作に恵まれず、 親友の杉山昌三九を頼って大都映画などに仕事の仲介を頼んでいたという。1939年、脳の病気(病名は不明)にかかり、自宅療養の日々が続いたが、杉山を始めとした業界仲間の支えがあり一時回復した。しかし数ヶ月後に病が再発。以前より悪化の一途を辿り変わり果てた姿で入院生活を余儀なくされた。友人たちの間で谷一家に援助しようという話が持ちかけられ、松竹時代に懇意であった島津保次郎が発起人となって義捐金を募集したという。そして、友人たちの願いも空しく、1939年9月12日に38歳の生涯を閉じた。

 1939年9月12日死去(享年38)


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