赤木圭一郎



赤木圭一郎(あかぎけいいちろう 本名:赤塚親弘 1939年5月8日生)
 [俳優]


 東京で開業医の家庭に生まれ、後に神奈川県へ疎開。神奈川県立鎌倉高等学校卒業後、成城大学に入学。大学在学中の1958年、日活第4期ニューフェイスとして日活へ入社。映画デビュー作は石原裕次郎主演の『紅の翼』ここで彼は本名の赤塚親弘の名義で群集の一人としてエキストラとして出演し、そのバタ臭い風貌や退廃的な雰囲気がこれまでの日本人俳優にはない個性として評判を呼び、当初は主人公の弟分や準主役級の扱いだったがまもなく20本以上の無国籍アクション映画に続けて主演するようになった。

 鈴木清順監督の『素っ裸の年令』(1959年)で初主演。日活のアクション俳優として、“マイトガイ”小林旭、“タフガイ”石原裕次郎に続く「第三の男」と呼ばれた。また、「トニー」の愛称(ハリウッドスターのトニー・カーチスにどことなく風貌が似ていたことが由来)で親しまれた。

 プライベートではジーンズなどのラフな服装が多く、日活の俳優仲間以外では丸山明宏や同じく湘南出身の加山雄三と交流があったものの、大勢でいるよりは己の時間を大切にする繊細で真面目な性格だったと言われる。同時に、威張らず気さくな性格からファンのみならず俳優・スタッフなど業界内の人望も篤かった。演技力の評価は必ずしも高くなかったが、他者には代えがたい「華」「存在感」を持っているとの声が高く、将来を嘱望された大スターだった。

 1961年2月14日、映画『激流に生きる男』のセット撮影の合間の昼下がりの休憩時間に、調布市の日活撮影所内でかまやつひろし、長門裕之らとゴーカートを運転中、咄嗟にブレーキとアクセル(乗用車とは逆位置)を踏み違え60km/h以上の速さで大道具倉庫の鉄扉に激突し、慈恵医大病院に緊急入院。一度は意識を取り戻し回復の兆候は見せたものの、1週間後の2月21日午前7時50分、前頭骨亀裂骨折に伴う硬膜下出血のため21歳の若さでこの世を去った。赤木の家族らと共に長門裕之も臨終に居合わせた。

 当初、『激流に生きる男』の主役は石原裕次郎の予定であったが、石原が志賀高原でのスキー事故により入院したために急遽、代役で赤木に決まった。その撮影中にセールスマンが売り込みに来たゴーカートに試乗していたところだったという。石原は赤木の事故死によるショックで病状が悪化したという。

 赤木の事故死は当時の日本の各方面に大きな衝撃と悲嘆をもって受け止められ、その早逝から「和製ジェームズ・ディーン」とも呼ばれた。10日後にはファンの17歳の少女が後追い自殺をするに及び、爆発的な人気に火がついた。プロマイドは死後6年経った1967年まで男優部門での売り上げ10位以内に入り続けるという高い人気を保ち、同年には『トニーは生きている、激流に生きる男』のタイトルで最後の映画が公開され、写真集やレコードが発売された。

 神奈川県鎌倉市の長勝寺に建てられた赤木の記念碑へは死後45年以上たった今でも訪れる者が多く、献花が絶えることはないという。

 1961年2月21日死去(享年21)


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