三沢光晴



三沢光晴(みさわみつはる 本名:三澤光晴 1962年6月18日生)
 [プロレスラー]


 北海道生まれ、埼玉県育ち。三沢は子供のころから体が大きく、運動神経が良かった。中学2年の時、テレビで全日本プロレス中継を見て「観るよりやるほうが絶対におもしろい」と直感した三沢はプロレスラーを志すようになる。三沢は中学校を卒業してすぐにプロレスラーになるつもりだったが、担任の教師と母親にアマチュアレスリングの強い高校へ進学して基礎を学んでからの方がよいと説得され、足利工業大学附属高等学校に特待生として進学した。レスリング部に入部した三沢は高校の3年間を学校の寮で過ごし、ハードな練習に明け暮れる日々を送った。三沢は3年の時に国体(フリースタイル87kg級)で優勝するなど活躍したが、本人にとってアマチュアレスリングはプロレスラーになるための手段に過ぎず、競技自体を好きになることはなかった。

 高校卒業後の1981年3月27日、全日本プロレスに入団。同年8月21日、越中詩郎戦でデビュー。入門から5ヶ月でのデビューは全日本プロレス史上最速であった。ジャイアント馬場に2代目タイガーマスクとなるよう命令を受け、1984年8月26日、ラ・フィエラ戦で2代目タイガーマスクとしてデビュー。1990年春、天龍源一郎が全日本プロレスを退団しSWSへ移籍、複数のプロレスラーが天龍に追随した。この騒動の最中の5月14日、三沢は試合中にタイガーマスクのマスクを脱ぎ、三沢光晴に戻ると同時にポスト天龍に名乗りを挙げた。三沢は川田利明、小橋健太らとともに超世代軍を結成。1990年6月8日に「全日の『強さ』の象徴だった」ジャンボ鶴田とのシングルマッチで勝利を収め、1992年8月22日にはスタン・ハンセンを破って三冠ヘビー級王座を獲得するなど、超世代軍の中心レスラーとして活躍した。以降は小橋・川田・田上明とともにプロレス四天王の一人として全日本プロレスの中心を担った。三沢は1992年8月から1999年10月にかけて三冠統一ヘビー級王座を5度獲得、21度防衛。1994年3月5日には全日本プロレスの象徴的存在であったジャイアント馬場からタッグマッチでフォール勝ちし、名実ともに同団体を代表するレスラーとなった。

 1999年に馬場が死去すると、マッチメイクなど現場における権限を譲り受けていた三沢はレスラーの支持を受けて後継の社長に就任した。しかし、馬場の妻である馬場元子が会社の運営について大きな発言権を有し、試合会場での実務や対戦カードにまで口出しする状況が続いていた。2000年6月16日、全日本プロレスの体制に強い不満を抱いていた選手達が団結し、三沢が中心となって離脱後、新団体「プロレスリング・ノア」を旗揚げした。離脱者は川田利明、渕正信、太陽ケア、馳浩の4名を除く全選手、和田京平ら一部従業員を除く20数人というほとんどの社員となり、日本のプロレス史では最大規模となる総勢約50名強の旗揚げとなった。

 ノア旗揚げ後の三沢の体調は常に悪く、思うように練習ができない日々が続いた。しかし、三沢はノアの社長として試合に出続け、GHCヘビー級王座を3度、また小川良成とのコンビでGHCタッグ王座を2度獲得。2007年には同王座チャンピオンとして防衛を続け、それまで縁のなかったプロレス大賞MVPに当時史上最年長(45歳)で選出された。

 晩年の三沢は頸椎に骨棘ができて下を向くことが困難になり、右目に原因不明の視力障害が起こるなど体力面の不安が深刻化。さらに肩、腰、膝にも慢性的な痛みを抱えていた。頚部は歯を磨いたり、ガウンの襟の部分が当たったり、寝返りを打つだけで痛みが走る状態にあった。休養をとるよう勧める声もあったが、三沢はノア旗揚げ後のすべての興行に出場した。2009年6月9日、東京スポーツの取材に応じた三沢は「もうやめたいね。体がシンドイ。いつまでやらなきゃならないのかなって気持ちも出てきた。」と語っている。それから4日後の6月13日、三沢は広島県立総合体育館グリーンアリーナで行われたGHCタッグ選手権試合に挑戦者として出場(【王者チーム】バイソン・スミス&齋藤彰俊vs 【挑戦者チーム】三沢&潮崎豪)。試合中、齋藤彰俊の急角度バックドロップを受けた後、意識不明・心肺停止状態に陥った。リング上でノア選手、関係者らによる懸命の救急蘇生措置が施された後、救急車で広島大学病院に搬送されたが、午後10時10分に死亡が確認された。三沢が意識を失う前にレフェリーの西永秀一が「動けるか?」と問い掛けた際に、「動けない」と応じたのが最後の言葉となった。翌6月14日、広島県警察広島中央警察署は、三沢の遺体を検視した結果、死因をバックドロップによって頭部を強打したことによる頸髄離断であると発表した。

 三沢が受けたバックドロップ自体は危険なものではなく受け身もとれており、三沢の死は事故であったという見解が示されている一方で、プロレス関係者やファンの中には三沢の死は過激な試合を繰り返したことで蓄積したダメージによって引き起こされたものであると捉える者もいた。

 6月19日に東京・中野区の宝仙寺にて密葬が行われ、200人が参列した。法名は「慈晴院雄道日光」。遺影には「リングの上の栄光の瞬間や社長としてのスーツ姿ではなく、2000年に1度だけ参戦した耐久レースにおいてレーシングスーツを着て笑っている写真」が家族の意向で選ばれた。日刊スポーツは「トップレスラーとしてプロレス団体社長として家族として責任を背負い続けてきたので、最後くらいは解放させてあげたい」という家族の配慮があったと報道した。7月4日ディファ有明にて献花式「三沢光晴お別れ会 〜DEPARTURE〜」が開催され、プロレス関係者やファンなど約26000人が参列した。

 2009年6月13日死去(享年46)


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