松田優作



松田優作(まつだゆうさく 1949年9月21日生)
 [俳優/歌手]


 山口県生まれ。日本人の父と在日韓国人の母親との間に私生児として生まれた。次第に自身の出生の秘密に気付き始め、それが原因で孤独を感じるようになる。1967年11月、「米国へ行って弁護士になれ」との母親からの厳命により、不本意ながら下関市立第一高等学校を2年で中退し、叔母夫妻を頼って米国籍を得る為に渡米する。カリフォルニア州モントレー郡シーサイド市のシーサイド高校に入学。しかしながら、叔母夫妻の離婚訴訟や言葉のギャップなどに悩み、1968年9月に母に無断でシーサイド高校を中退し帰国する。長兄一家が居住する東京都豊島区のアパートに居候し、私立豊南高等学校夜間部普通科の4年生に途中編入。1970年に関東学院大学文学部に入学する。

 1971年3月、劇団『文学座』の入所試験を受けるも一次の筆記試験で不合格。同年5月、金子信雄主宰の劇団「新演劇人クラブ・マールイ」に入団。1972年4月、文学座付属演技研究所十二期生となり、役者に専念するために、6月には大学に退学届を出す。1969年頃の無名時代に新宿駅東口のトリスバー「ロック」でバーテンダーをしていたときに、客として来ていたひし美ゆり子、原田大二郎、村野武範らと知り合いになり親交を結んでいる。村野は自身が出演していた『飛び出せ!青春』のプロデューサーである岡田晋吉が新人俳優を探していることを聞き、松田を推薦した。これがきっかけで、1973年、刑事ドラマ『太陽にほえろ!』にジーパン刑事としてレギュラー出演、その活躍・殉職シーンが話題となる。また、志垣太郎主演の東宝『狼の紋章』にて映画初出演を果たした。同時期、『太陽にほえろ!』出演を機に「現在は松田優作という通称名を使っているので番組の関係者にも知られていませんが、もし僕が在日韓国人であることがわかったら、みなさんが失望すると思います」という理由で法務省に帰化申請を行い、日本国籍を取得。これにより、通名だった松田優作が本名となった。1975年9月21日には劇団仲間であり、作家の松田美智子と結婚し、長女が生まれる。

 1976年1月31日、前年7月19日に行なわれた『俺たちの勲章』の鹿児島ロケ打ち上げの際、19歳の予備校生に対して共演者と共に暴力を振るい、全治3ヶ月の重傷を負わせた容疑で警視庁新宿警察署に逮捕される。このため、毎日放送の4月新番組『隠し目付参上』をクランクイン寸前に降ろされ、1年間テレビドラマのレギュラー出演を自粛した。身柄を東京拘置所に移された後、傷害容疑で起訴され、同年3月10日、東京地裁で懲役10月、執行猶予3年の有罪判決を受ける。1976年5月、東映『暴力教室』(岡本明久監督)がクランクイン。これにより映画復帰を果たす。また、同年に公開された時代劇『ひとごろし』では、臆病な侍という今までになかった役柄を演じ、時代劇初主演となる。同年7月25日にはアルバム『まつりうた』で歌手デビュー。1977年、刑事ドラマ『大都会 PARTII』でテレビに本格復帰した。1979年、村川透監督角川映画『蘇える金狼』、澤田幸弘監督の映画『俺達に墓はない』、テレビドラマ『探偵物語』など、この頃多くのアクション映画に主演しているが、ボブ・ディランをもじった朴李蘭の名で、劇団の旗揚げも行う。翌1980年に村川透監督の東映映画『野獣死すべし』では、撮影のために過酷な減量をし、原作のハードボイルドとは異なる鬼気迫る演技で主演。この時期を境にアクション映画からしばらく距離を置き、演技派俳優への道を模索する。1981年、泉鏡花原作の文学作品『陽炎座』、松田優作の楽曲が織り込まれ、かつ、主人公の少年愛的な場面を描いた工藤栄一監督の『ヨコハマBJブルース』に主演。それまでのイメージを一新する役柄を演じる。

 女優・熊谷美由紀(現・松田美由紀)との不倫が原因で1981年12月24日に離婚。美由紀とは『探偵物語』の共演で出会い、「今まで見たことが無いエキセントリックな女だ」と衝撃を受け、「この女から離れられない」と感じたという。龍平出産後に結婚する。美由紀との間に、順に長男・龍平、次男・翔太、娘が一人いる。1986年には映画『ア・ホーマンス』製作途中で、作品の方向性に関して意見が食い違ったため、監督が降板。自らがメガホンを取ることとなり、これが初監督作品となる。やくざ抗争とSFテイストを融合した異色の作品である。

 1988年、深作欣二監督の時代映画『華の乱』では、国民的女優吉永小百合と共に主役を演じる。この撮影をしている頃から、松田優作は尿が出なくなり腹がパンパンに張っていたという。その後アメリカ映画『ブラック・レイン』に出演し、念願のハリウッドデビューを飾る。同映画の撮影時点で自身が癌に侵されている事を知るが、延命治療を拒み、出演していた。なお、病気の事実を知る者は、撮影関係者では安岡力也のみであり、周囲にも堅く口止めがされていた。1989年11月6日、午後6時45分に入院中の東京都武蔵野市にある西窪病院で膀胱癌の腰部転移のため、40歳で死去した。

 11月8日に営まれた告別式には高倉健をはじめ、桃井かおり、原田芳雄、水谷豊ら関係者700人を含む約2000人が参列した。棺の中には、『遊戯シリーズ』『家族ゲーム』など出演作の中で本人のお気に入りだったビデオ10本、愛用のサングラス、白いスーツが納められ、出棺の際に美由紀夫人が「私を置いて行かないで」と遺体にすがり号泣した。法名は天心院釋優道。

 1989年11月6日死去(享年40)


<<重要なお知らせ>>

@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
@peps!・Chip!!は、2024年5月末をもってサービスを終了させていただきます。
詳しくは
@peps!サービス終了のお知らせ
Chip!!サービス終了のお知らせ
をご確認ください。



w友達に教えるw
[ホムペ作成][新着記事]
[編集]

無料ホームページ作成は@peps!
無料ホムペ素材も超充実ァ